各業界の第一線で活躍されている同窓生をご紹介するシリーズの第5弾。現在、NHKで放送中の連続テレビ小説「あさが来た」が大変好評ですが、今回は、そのヒロインのモデル「広岡浅子」が創業した大同生命の会長、喜田哲弘さんにお話をうかがいました。なお、喜田さんは、同社および太陽生命等の持株会社であるT&Dホールディングスの社長でもあります。
■自由な高校時代
当時、高津高校は大阪で唯一の「制服のない高校」でした。「なんて自由な学校なんだろう」と期待に胸を膨らませ、迷わず受験することにしました。
無事合格したものの、残念ながら、入学してからの私はあまり真面目な高校生とは言えませんでした。とりあえず登校はするものの、学校にいる時間は他の生徒よりも少なかったように思います。そのためか、高校の思い出よりも、当時の仲間との思い出の方が圧倒的に多いです。色んな意味で彼・彼女らから大きな影響を受けました。いまも続く私の趣味の一つに音楽鑑賞があります。特にクラッシックやジャズが好きですが、その楽しさ、素晴らしさを教えてくれたのも当時の仲間たちです。
高津高校のリベラルな校風が私のような生徒を受け入れ、世に送り出してくれたことにあらためて感謝します。
■大同生命とT&Dホールディングス
さて、現在私が勤める大同生命は、主に中小企業経営者のための保険をご提供しています。中小企業の場合、社長自身が商品開発から営業や財務など、すべての仕事を担当することが多い。そのため、かつては、社長が亡くなると会社も一緒に無くなってしまうといったことがよくありました。そこで、社長が亡くなった時に、当面の経営に必要な資金だけでも保険で手当てできればと考え、現在のような保険を販売するようになりました。1970年代前半のことです。そして、近年では、社長が亡くなったときだけでなく、三大疾病(がん・脳卒中・心筋梗塞)にかかったり、ケガや病気で重い障がいが残ったりして仕事ができなくなった場合でも、会社が存続できるような新商品を開発し、ご提供しています。
また、2002年に大同生命は創業100周年を迎えました。その年、当社は日本で初めて相互会社から株式会社に組織変更しました。そして、その2年後、当社と太陽生命を傘下に持つ持ち株会社「T&Dホールディングス」を設立しました。当社と太陽生命は、マーケットも商品も販売スタイルも全く異なる会社です。それぞれに強みを持った会社が一緒になり、グループとして、さらに強くなっていく。その考えは今も変わっていません。それぞれの個性を持った会社が、それぞれの強みを活かす。それが私どもT&D保険グループの最大の特徴です。
■広岡浅子との出会い
大同生命が創業100周年を迎えた2002年当時、私は企画部長として周年事業を指揮していました。節目の年に社史をまとめる会社は多いですが、私は単に「○○社長は○○しました」といったことが書かれたものは作りたくなかった。「いっそのこと社史など作るのをやめよう」とさえ思いました。しかし、若い社員に会社の歴史について尋ねると、何も知らないケースが非常に多い。私は常々「歴史を知ることは未来に責任をもつこと」と考えていました。そこで、より多くの方に大同生命の歴史に関心を持ってもらえるような100年史を作りました。
その中で注目したのが広岡浅子であり、彼女の嫁ぎ先である加島屋だったのです。明治時代にあれほどの実績を残した女性は他にいないと思います。また、加島屋をはじめとする江戸時代の大坂商人の「知恵と実力」にもあらためて感銘しました。
それから8年後(2010年)、私は社長になりました。創業110周年(2012年)の際には、広岡浅子や加島屋をさらに多くの方に知ってもらえるよう、肥後橋にある大阪本社で特別展示をスタートしました。また、当時、浅子の生涯をまとめた唯一の書籍であった「小説 土佐堀川」を復刻してもらい、色んな方々に読んでいただきました。
もしかしたら、そういった取組みが今回のドラマ化につながったのかもしれません。いま大阪本社の展示は、1日の来場者が500名を超える日もあります。もちろん、ドラマの影響も少なくないと思いますが、浅子と出会った頃の想いがこのような形で実を結び、大変うれしく思っています。
特別展示 『大同生命の“加島屋と広岡浅子”』 のご案内
http://www.daido-life.co.jp/110th/memorial/
■有事のリーダーとして
私は大同生命に入社して約40年になります。保険会社というのは何をやる場合でも、きっちりとした手続きを定めています。また、色んなことを判断する際にも、様々な要素を考慮するような行動様式が役職員一人ひとりに身についています。
私は2010年4月に大同生命の社長になりましたが、当時はいまだリーマンショック(2008年9月)の後遺症が残る非常に厳しい経営環境にありました。さらに、就任1年後の2011年3月に東日本大震災が発生しました。いま思うと本当に色んな経験をしました。眠れない夜もありました。刻一刻と変化する状況を踏まえて、右か左かをすみやかに判断しないといけないことの連続だったのです。おそらく、他の仕事をされていた方や異なる立場にいらっしゃった方も、同じ状況だったと思います。
誰もが「これまでのやり方ではダメだ」と思ったに違いありません。では、具体的にどのように行動を起こすのか。誰かが「こうやろう」と決めるしかないのです。その立場に私はありました。可能な限り多くの情報を集めて冷静に判断する。軌道修正が必要ならすみやかに方向転換する。いま振り返ると、「有事のリーダー」は、「平時のリーダー」とは全く別物だと思います。
福澤諭吉は、明治維新を「一身で二生を経る」、すなわち、人生を二度生きたような大きな変化だったと言いました。広岡浅子も同じ時代を生きましたが、彼よりももう少し若かった彼女は、生まれながらにして「有事のリーダー」だったのかも知れません。
■広岡浅子の想いを胸に
私もそうですが、「あの時もっと勉強しておけばよかった」と思う方は多いと思います。確かにそうかもしれません。しかし、過去の自分を嘆いても仕方がないと思います。
「女子に学問は不要」という商家のしきたりの中で少女時代を過ごした広岡浅子は、60歳を過ぎてから日本女子大学の通信講座を始めたそうです。彼女の座右の銘は、七転び八起きを超える「九転十起(きゅうてんじゅっき)」。そんな彼女は「私には遺言はない。いつも言っていることが全て」と語っていたそうです。
100年経った今、ドラマのヒロインとなって現れた浅子は、私たちに「日本のみなさん頑張りなはれ、負けたらアカンで」とエールを送っているように思います。毎日、新しい「あさ」を迎えられることに感謝し、一歩ずつ一歩ずつ進んで行きましょう。
【取材後記】
・取材させていただいた日は、ちょうど喜田さんが『藍綬褒章』を授賞される発表があった日で、大変お忙しいのにもかかわらず、インタビューのあと、旧大同生命ビルの内装を再現した展示室での特別展示『大同生命の“加島屋と広岡浅子”』も案内していただきました。その日以来、NHK『あさが来た』に親近感を覚え、毎朝の楽しみになりました。
・早くに取材させていただいたのに、手違いで、掲載が大変遅れましたこと、お詫びいたします。
取材日 2015.11.02