平成30年4月9日(月)、阪急グランドビル内、中国料理白楽天に於いて卒後73年、卒寿祝いとして開催。
昭和16年入学時約300名であったが、今回健康寿命を保っている8名が参加した。
3時間の会は話題沸騰し盛会となり、惜別の感の中終了した。
同窓会報告と一緒に、吉安克彦さんによる肉筆の手記が同封されていました。
困難な時代を生き抜いた中学24期生の真実があまり知られて居らず残念に思っておられたそうです。
ここに手記全文を掲載いたします。
想い起せば、入学時の1941年8月文部省は学校報国隊確立の訓令を発した。
私達が3年次には、学校報国隊として、4年次には本格的に決戦体制として各軍需産業に動員された。前記の如く学校に於ける授業は2年次の終わり頃に止む無く停止し、集団的勤労作業に動員された。クラス別に動員先は異なっていたので、この報告者吉安の例を挙げると、旧陸軍の大正飛行場(現在、八尾飛行場)の掩体壕建設、朝鮮・満州鉄道の蒸気機関車を製造していた大阪汽車会社、海底ケーブル線製作の住友電線会社、ついで国鉄港町管理局管轄の貨物駅・浪速駅から第3突堤に至る線路工事で伍長さんの指導で鶴嘴をふるった。
官報に私達級友全員が線路工手に任ずると掲載されていたのを鮮明に憶えている。
この様に現場を転々としたが、4年次(A組)に入った昭和19年(1944年)には、本格的に姫島にあった大鋼機械製作所の仕上工として出社、フライス盤の工作機械完成前の摺合せ(シカラップ)と屋根裏を走るクレーンの運転、また鍛冶屋の真似事を、級友でその後和歌山医大に入学した故安井昌孝君とタッグを組んで作業を行った。
この年の12月7日13時35分、工場内にあった防火用水が猛烈な揺れで半分近くが溢れた東南海地震、国家機密で新聞やラジオでは報道されなかったが、名古屋方面の航空機工場は壊滅的打撃を受けた。翌年の1945年3月13日、第1回大阪大空襲によって工場は焼夷弾であっという間に灰塵と化し、猛火の中を逃げ惑う有様、よくも命があったものだと今思えば、全く好運であった。
この月末に今迄は旧制中学校は5年制であったが、我々24期生は4年生で卒業という日本教育史上たった1回きりであったが、空前絶後の短縮(今様で言えば新制高校1年で卒業)そして大学受験という激変・激動の世代であった。しかし間もなく5か月後の8月10日ポツダム宣言受諾、15日には無条件降伏。遂に淡い頼みの神風は吹かなかった。
終戦の日、同期で海軍兵学校在学の岩田公利君は皇居前広場で割腹自殺した由。武人の誉れを選んだのか、嗚呼。
私達の後輩25期生は旧態に戻って5年生卒業となり、私の弟が在籍した26期生は、大学受験は4年修了時・5年卒業時そして新制高校3年時の大学受験が現役3回目という、1回しかなかった24期生から見れば全く羨ましき劇的な教育史上の変遷であった。
然しながら24期生は東大数名、京大入学は10名近く、医師は20名、歯医者は6名、大学の学長になった者は2名等々という成果であった。
「ペンを持つ手に銃を、学徒は肉弾となり皇御国に尽忠奉公せよ!!」という戦時教育を受けた者として、翻るとあの指導は狂気の沙汰であった。
だが歴史は繰り返すという言葉がある。各人はこの異常な過去を銘記し、決して再び過ちを犯してはならない。これが私達24期生全員の遺言でもある。
(旧制中学24期幹事 田中敬之助・内田嗣也、報告者 吉安克彦)