<清水幸義 元高津高校定時制教諭 高津高校同窓会報 創刊号より>
誰でも知っているあの碑のことである。ただ大体、中学の卒業生と高校の卒業生とで、風景が違っている。碑の背面に昭和二十五年、特別都市計画法により四十一メートル東北に移動した旨、記されている。
以前は、市電の小橋西之町停留所から、狭い(当時としては普通の広さの)道が一直線に上ってきて、突き当たりに、柵に囲まれて碑があった。生徒は脱 帽最敬礼して、右向け右して、正門を入った。現在庭園に「橘」と刻まれた石がある。右近の橘の変わりに、宮祉の前におかれていたものであろう。
側面に「明治三十二年十月」の日付がある。
「鉄道唱歌」(汽笛一声新橋を・・・・)の作られたのは明治三十三年、次の一節がある。
ここぞ昔の難波の津 ここぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし。
大和田建樹は人力車に乗って、大阪城前を通り、ここに来て、更に四天王寺に脚を伸ばしたらしい。
ビルのないこの時でも、安治川口が見えたとは思えないが、丁度日本の産業革命期、北方の空一面にあがる工場の煙は、彼に印象を残したろう。大和田は車を降りて、できたばかりの眩い碑の前に、ただずむ。大阪府立高津中学校はまだ影もない。
日付の反対側の側面には「大勲位 元帥 彰仁親王書」と刻まれている。「高津宮祉」の文字を揮毫した人の名である。明治史に大きな役割を果たした人だが、案外知らされていない。
小松宮彰仁親王 弘化三年ー明治三十九年(1946ー1903)
1868年正月四日、征東大将軍に任命され、錦旗、節刀を賜って鳥羽伏見の戦いに出陣した。
宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ、知らないか
品川弥二郎作の軍歌、トンヤレ節に有名な宮さんこそ、この人である。当時二十二歳。
このことにより、薩長は官軍、幕府会津は賊軍とされ、戦争も薩長が勝った。
七月、柏崎に上陸、会津征討総督となる。その下で事実上作戦指揮に当たった参謀は、山県有朋。
長岡の河井継の助の反撃をくらって、苦戦を重ねん琉話は、司馬遷太郎の「峠」に詳しい。
明治二年、新政府に入って、初代兵部卿。兵部卿とは、陸軍大臣と海軍大臣、参謀総長と軍司令部長を兼ねた職。七年佐賀の乱にも、征討総督。
明治十年西南戦争には、東伏見宮の名で陸軍少将となり新撰旅団の長となった。
新撰旅団とは、巡査として徴募された志願兵の軍団である。参謀長は立見尚佐少佐。立見は戊辰の越後口で河井継之助の下に勇戦して、宮を苦しめた。新撰旅団 の戦死者の墓の一部は真田山陸軍墓地にある。小松宮は晩年、人間嫌いになって、人づきあいが悪かったという。現在、知られること少ないのは、そのためかも しれない。